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生きたいと想って。生きたいと願って。だから生きているのだと思えるこの場所で――
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 煌びやかで、それでいて清楚な淡い色をしたドレスは、ユリティアにとてもよく似合っていた。ソフィーネが先程騒いでいたのも頷ける。もっとも彼女の場合は、彼女が何を着ていたって、そうして歓声を上げるだろうが。そういったことを除いても、彼女はそのドレスを着こなしていた。彼女の護衛として後ろに控えるアーシャの位置からは、今は彼女の表情は見ることができないが、おそらくその表情は至極落ち着いた、柔らかなものであるに違いない。自身が命を狙われているなど、微塵も感じさせないような。
 彼女は、強い。アーシャはそれを後ろから眺めながら、彼女の護衛として、入室する。
 部屋中の視線が、刹那、集まったように感じられた。気のせいだろうか。彼らは全員、ユリティアの入室時、頭を下げている。こちらを見られるはずなどない。――とはいえ、こちらの存在を気にしていることは、事実だろう。
 王が無理やりにこの式典に出席させた平民の娘とは、どんなものか、と。
 おそらく今ここで自分が下手な真似をすれば、王の信頼は失墜する。それに関して、アーシャはひたすら複雑な想いを抱くことしかできなかった。
 もう、後戻りはできない。どうしたって無理だ。
 それが一瞬、部屋の扉を跨ぐ際の逡巡に繋がったのだろう。ただ、迷ったのはほんの一瞬だ。頭をもたげた疑問を一瞬で消し去り、アーシャは一歩踏み出した。
 目を細め、辺りを見渡す。頭を下げる彼らだけではない。部屋の隅から隅までを、素早く、けれど何一つ見逃すことのないように。
 奥に、ユリティアの兄弟姉妹も、他の者と同様に並んでいる。その中に、エインレールの姿を見つけ、ドキリと心臓が高鳴った。
 それは、不思議な衝動だった。
 今すぐに、彼のもとに行きたいと思った。今すぐに言って、全てを話してしまいたい。
 ―――馬鹿だ。
 そんなこと、できるはずが、ない。
 内心で自分自身に冷笑を向け、それから気を引き締めなおした。大丈夫、大丈夫だ。この頃口癖になり始めた言葉を、今日も今日とて同じように繰り返す。
 視線を、真っ直ぐ前に向ける。
 静かに笑う王と、目が合った。全てを見透かすような、その目と。
 ―――おそらくその時初めてアーシャは、彼のことを本当の意味で怖いと思った。
 しかしそれを気取られぬように、目に力を入れ、見返す。そのまますう、と視線を移動させた。参列者の中に、クリスティーの姿がある。あれは本物か、それとも偽物か。果たしてどちらだろう。
 部屋のなかほどまで進んだところで、ユリティアが優美な動作で膝を折った。違和感がないように気を付けながら、アーシャもユリティアの動きに合わせて、その場で膝を折る。
 落ち着け、落ち着け。大丈夫だ。大丈夫、バレていない。
 式が慎ましく始まりを告げる。頭(こうべ)を下げたユリティアを見、クレイスラティがゆっくりと立ち上がった。一歩、また一歩とこちらに近寄る。そのまま、ユリティアの直前まで行く。そういう手筈になっていることは、既にエインレールを通して説明を受けている。
 王が最後の一歩を踏み出した時に、全ては始まった。
 素早くその場で立ち上がる。おそらくその動きを捉えられたものは少ないだろうと、アーシャは自負している。…この場でこんなこと、自慢にもならないが。
 そのままなんの躊躇もなく、光を放った。王の心臓目掛けて。強く鋭い光の刃が、一直線に奔り抜ける。
 ドォンッ、と部屋全体が揺れるような、強い風が巻き起こった。光の刃が、王の胸を貫いた、その衝撃からだった。
 一瞬だった。全てが止まったような、錯覚。その一瞬後には、再び全てが動き始めていた。
 光の刃を握った王の身体が、ぐらりと前方に傾く。
 王の傍に控えていたグリスは、それに動揺を見せず、ダンッ、と地を蹴った。その逆の端に立っていたマティアの顔には、明らかな動揺がある。しかしそれも次には掻き消え、魔法の詠唱を始めていた。
 さすがだな、とこんな場合だというのに、思う。
 思わず苦笑しそうになって、―――視線を走らせた中にエインレールの姿があって、固まった。
 彼の目は信じられないとばかりに見開かれていて、だというのに、彼の手にはしっかりと抜身の剣の柄が握られていた。今一歩踏み込めば、そのまま敵を斬り捨てられる、その位置で、彼は止まっていた。
 ごめんなさい、と思わず叫びそうになって、だけれどそんなことをして、何になるというのだ。想いを、振り切る。
 落ち着け。今、とにかく、やることは、やらなくてはいけないことは、――――、
「と、父様…? 父様ぁ! このッ」
 おんなのこの、こえ。
 剣を引き抜き、対峙しようとし、―――迷った。
 そこにいたのは、クリスティーだ。目を見開き、涙を浮かべ、おかしな表情のまま、むちゃくちゃに剣を引き抜いて向かってくる、小さな少女の姿だ。
 これは、本物か、偽物か。
 本当は、そんなことを迷っている場合ではなかったというのに、迷ってしまった。
 それがいけなかったのだ。
 間近まで迫ったところで、ニヤリ、と醜悪に歪んだその顔に、我に返る。駄目だ。
 ぐんと速度を増した小さな体躯。それでもその程度の速度ならば、対応できたはずだった。普段ならば。
 直前まで迷っていた所為で、体勢が整っていない。いや、最低限の構えはできている。ただそれは、彼女が本物だった場合に怪我をさせないための、ただそのためだけのものだった。強力な力に耐えるためのものではない。
 かろうじて一撃目を払いのける。やはり、少女の力とは思えないほど、重い。
 じんと手首が痺れる。二撃目は、それを見越しての、―――絶対に構えられない方向からの、斬撃だった。
 避け切れない。
 ここまでか。
 諦めるつもりではなかったが、不意に浮かんだ結末を、否定できる要素などなかった。
 黒い影が、そこに入り込むまでは。
 ドンッ、という衝撃とともに、彼女の身体は地面に叩きつめられていた。いや、正確には、もうひとつ別のクッションごしに、地面の硬さを感じたのだ。
 あたたかい。これは、体温だ。人の体温。ならば、―――ならばこの鼻を突くツンとした噎せ返るような臭いはなんだ。
「エイン兄様ッ! どうして! どうしてそんな女を庇ったの!? なんで兄様が邪魔するのよ! 父様が…父様が殺されたのよ!? その、その女に! なのに、なのにイッ!」
 げほっ、と苦しげに咳き込む声が、間近で聴こえた。
「…………エ、イン?」
 戸惑いを多分に含んだ声に反応してか、エインレールの視線が、ゆっくりとアーシャに向けられる。
「どうして………」
 どうして庇ったの。
 その言葉を全て言い終わる前に、エインレールは脇腹を押さえながら、上半身を引き起こす。臭いは、そこからしていた。鉄の、臭いは。押さえた手の端から、赤いモノが溢れだしている。
「兄様もあたしたちを裏切―――!」
「お前」
 静かな声だった。しかしその声にははっきりと、支配力があった。
 気付けば、その場は、アーシャがクレイスラティを打った時と同じように、固まっていた。いや、単に様子をうかがっているだけか。グリスやマティアは、次にいつ、誰がどう動いても対処ができるように、神経を尖らせている。
 その中で、エインレールは言い放った。
「お前、誰だ」
 低く唸り上げるような声に、クリスティーは、いや、クリスティーのフリをしたソレは、ビクリと身体を震わせた。なにをいっているの、と震えた声が小さく響く。
「え、エイン兄様…どうしちゃったのよ。あたし、」
「お前は誰だと訊いている。答えろ、誰だ」
 サアと青ざめた顔で、ソレは一歩二歩と後ずさり、顔を俯かせた。
 肩が震えている。
 それに対して、アーシャはどうしても、悪寒を覚えずにはいられなかった。
「くっ………くくくくっ、くははは! はは! この状況で気付くたァ、なかなかやるじゃねェか、王子サマ?」
 そこに立っていたのは、全くの“別物”だった。狂気に歪んだ瞳、口、顔。参列者がどよめく。何がどうなっているんだ、と言いたげな雰囲気だ。誰が敵で、何が味方かを、正しく判断し損ねている。
 もっとも、そのまどろっこしい状況を作り出した張本人である自分が、それについてとやかく言える筋合いはないのだが。
 アーシャは反射的に、エインレールの前に身を乗り出した。剣を握る。もう既に痺れは取れている。大丈夫だ、問題はない。やれる。
「ああ、アーシャ。ご苦労だったなァ。テメェは本当に、本ッ当に、よくやってくれたよ。なァ? 本当にテメェの故郷を想う気持ちには感服するぜ。できればココで死んで全ての罪を被ってくれりゃ一番だったんだが、まあ、いい」
 悦にでも浸っているのか、ニヤニヤと笑う表情に、眉を顰める。
「王がいなくなれば、あの方へのイイ手土産になる」
 “あの方”…また出てきた。いったい何者だというのだろうか。この、いかにも人の下に付くことを嫌いそうな性格の男が、むしろ自ら奮って忠誠を誓うほどの、大物。
 訊き出せれば一番いいのだが。
 意識がエインレールに向く。…あまり時間を、掛けたくない。
「………気安く人の名を呼ぶな」
 こんな状況だというのに、まずそれだけは、言わずにはいられなかった。どうしても。
「それに、」
 ちろり、と王を見る。ああ、“もういい”らしい。
「生憎、貴方の要求には応えられませんでした」
「なに?」
 ソレの目が、怪訝そうに細められる。
 そして、
「そうそう、そういうことー」
 その首筋に、まるで一度も血を吸ったことがないような、透き通る剣が、添えられた。
 ソレは一瞬、息を呑み、次にはハッと鼻で笑った。
「なるほどなァ、そーいうコトか」
 やけに静かだった。やはり――前にも思ったが、見た目ほど愚かではないらしい。なんと面倒な。
「テメェは、端からコイツの手先だったっつーワケだ」
「いえ、この人の部下になった憶えは一切ないですけど」
「ふふ、私が一度も指示することなく、こちらの意思を汲み取って行動してくれるなんて、本当に、できた部下だよね」
「だから、部下になった憶えは、一切合切、ないですってば」
 そこははっきり、否定する。冗談じゃない。
「でもイイのか? テメェの大事な大事なヤツラ、見捨てるコトになるんだぜ?」
「あたしは最善を選んだだけです。貴方が大人しく約束を守ってくれる保証なんてないですから。大体今あの地には、この人の――陛下の部下の方々がいらっしゃいます。そちらを敵に回すことの方が、よっぽどか危険が多いと判断しました」
 彼らがツベルの民を人質にとれるように、王家もまた、同じように人質を取れる立場にあるのだ。長期的に見て、どちらがより厄介か。そんなことは火を見るより明らかだ。あの大所帯を守るならば、それ以上に大きな力が必要なのである。そしてそれは、決して影の力であってはならない。いざという時に、表立って、堂々と行動できるものでなければならない。
 それに叶っているのは、王家の側だ。
 ―――いや、少し嘘を吐いた。
 それもある。ちゃんと、ある。だけれど、それだけじゃない。それが決め手ではない。
 王家には、信頼できる者がいる。エインレールを筆頭とした、ここで出会った人たち。自分はその人たちになら、自分の民を預けられる。だからだ。
 そんなこと、わざわざ今目の前に立つ者に伝えてやる義理はないが。
 アーシャの顔を見、もはやこちらには靡かないと悟ったのか、ソレは標的を変えた。
「テメェもだ、なあ王サマ。イイのか? この身体の持ち主、テメェの娘だろう?」
「あぁ、困るよねえ、それ。大事な大事な娘を傷つけられたら、本当に辛いよ」
 はあ、と憂鬱そうにため息を吐くわりに、手は一切ぶれない。
「あとは、…そうだね、娘と同じ姿をした何かを切るなんて、…良心が痛むよね」
「え、良心なんてあったんですか?」
 こんな時に余計な口を挟んだのは、彼の長男であるアルフェイクだ。本当に驚いた声色なのが、また怖い。
 しかしそれ以上に動揺してみせたのは、娘の姿をしたソレの方だった。
 何をそんなに驚くことがあっただろう、とアーシャは目を細め、―――やがて気付いた。
 ”娘と同じ姿をした何か“。それはつまり、ソレがクリスティーと同じ姿をしているだけで、本人に乗り移って意識を奪っているわけではないことを表していた。どこから手に入れた情報かもわからず、信憑性のほども確かではないが、あの動揺が全て嘘であるとは思い難い。
「それも含め、君からは訊きたいことがたくさんあるんだ。本当に、たくさんね。頼むから大人しくしてよ?―――今殺してしまうには、あまりに惜しい」
 クス、と静かに、やけに妖艶に笑うその様は、元の造形のよさも相成って、恐ろしさすら醸し出す。
 チッ、とソレは舌打ちした。そうして長く息を吐いた後、
「―――おい化け物」
 王に向かって化け物とは! 事態が収束したと思い安堵したためか、それまで息を潜めていた武闘派ではない貴族の一人が、声を荒げた。
 しかしそれを掻き消すように、アーシャは弾かれるように顔を上げた。
「陛下! もう一人います!」
「捨て置け」
 ほぼ同時に、ソレが笑った。
 バアンッ、と弾けた。
「あっぶないねえ」
「…あのヤロウ」
 クレイスラティとソレの間に、矢が突き刺さっていた。二人の間には、確かに距離が開いている。捕縛が解かれた。その割には、ソレはとても不満げな顔をしていたが。
「捨て置けッつっただろうが!」
 吐き捨てるように言い放つが早いか、ダンッ、と地面を力強く蹴る。走る方向は、この部屋の扉だ。その直線上にいる兵を手早く凪ぎ、扉を蹴り破る。
 その背後にキラリと刃が光る。投擲用のナイフだ。しかしそれは、ソレに突き刺さる前に、空中で別のナイフによって弾かれた。
「“下”を追え」
 クレイスラティが、グリスに手早く指示を出す。御意、と言うなりグリスはその巨体からは想像も付かぬスピードで駆け抜けた。
「追うぞ!」
 言いながら続けざまに名を二つ叫ぶ。その二人についてくるように命じ、他にはこの場の警備をしろと早口で告げた時には、既にグリスの姿はその部屋には無かった。
 それだけ確認すると、アーシャはエインレールに向き直った。
「エイン! 大丈夫ですか!?」
 しゃがみこんで、脇腹の傷の具合を確認する。―――酷かった。
 出血量が多い。呻き声ひとつ上げないのは、単に彼の矜持がどうにか痛みに打ち勝っているだけのようで、普通の人間ならショックで気絶していてもおかしくない。この身体でよくアレと対峙できたものだ。
「マティアさん、早く治癒魔法を…!」
 治癒魔法に関してならば、自分よりもマティアの方が優れている。そう判断してのことだった。
 しかし彼女は、ゆるゆると首を振る。
「それは無理だ」
「なっ、どうして!?」
 断言するな口調に、落ち着けアーシャ、と声が掛かる。その声に、シンと心が静まった。マティアが放った「落ち着け」という言葉は、震えていた。彼女自身も、どうにか感情を押し込めている状態なのだ。
「…エイン様の特性、知っているな?」
 素早くこちらに駆け寄った彼女は、アーシャの耳元で囁いた。
 エインレールの特性。
 すぐに答えが出てこない。それを見て取ったのか、マティアが答えを告げた。
「魔法が効かない」
 魔法が効かない。魔法が………。
「まさか…」
 治癒魔法も、その例外ではない。そういうことか。
 焦って見上げれば、ゆっくりとした首肯。
「じゃあなんで…!」
 なんで危険を冒してまで、自分を庇ったのだ。…いや、それは、今はいい。
 それよりも大事なことが、今、目の前にある。
「医者を、医者を呼んでください」
「もう呼びに行かせた。…ただ、来るまで持つかどうか」
 クレイスラティの言葉に、瞳が揺れる。
「エイン…!」
 脇腹に添えられた手に、自分の手を重ねる。そんなことでどうにかなるわけでもない。それでも何かをしたかった。
「…ぶ、だ」
「エイン?」
「だいじょうぶ、だ」
 心配するな、とエインレールは笑みを浮かべた。それは自然に作られたものでは決してない。ただ、無理やり口の端を上げただけのものだった。それでも、その瞳に、弱々しさは一切ない。負ける気などないのだと、訴えている。
 銀朱の、瞳が。
「………―――――――」
 ぽんと、なにかが、弾けた。
 死んでほしくない。彼に。
 否。
 死なせるわけにはいかないのだ、今。
 強く願うのと同時に、ふと思い出すものがあった。
「ああ、そうだ。今日、夢を見たの…」
 忘れていた。
 それを思い出した。
 だからなんだと、周りが彼女を訝しげに見る。しかしアーシャは、それに一切の関心を示さない。
「そう。あたしは―――」
 手を、空いた手を、更に重ねる。そうしなければいけない。それを知っていた。
「アーシャ…?」
「あたしは、あたしの王を、失うわけにはいかない」
 その瞳は、どこかうつろで。
 ここではない、もっと遠くを映しているようで。
 なおもエインレールが呼び掛けようとしたその瞬間、―――光が辺りに弾け散った。

「アーシャ、魔法は意味が…!」
「待てマティア」
 踏み出したマティアを、王が制した。
「君は、冷静になってこの場を見届けなければいけないよ」
 どことなく強張ったその表情に、マティアは息を呑んだ。未だかつて彼のそのような表情を、見たことがあっただろうか。しかしすぐに、王に言われた自分の役目を全うすることに専念した。そうしなければいけないと、本当に感じたのだ。
 光はまるで大きな花を咲かせるように、二人を中心に、ふわりふわりと漂っていた。その柔らかな光は、前に生得属性を映す水晶玉、アレに触れた時と、同じものだ。雷でもなく、ただの光でもなく―――彼女自身が違うのだと、明らかな反発を持って否定した、その答え。
 なんだ、これは。
「死なせない…」
 アーシャが呟いた。その言葉には、明確な意志がある。にも拘わらず、その表情は乏しい。
 それに、ゾクリと背筋が粟立った。あそこにいるのは、本当にあの少女だろうか。
 ゆっくりと、花でいうところの花弁が、閉じていく。二人を包むように。ゆっくり、ゆっくり―――やがて、完全に閉じられてできあがったその形は、蕾とは違うものだった。
 どこかで、見たことがある気がする。まんまるの、それを。
 しかし、はて、どこで、だったか。
 眉を寄せたマティアの耳に、ああ、と深く長く、まるでため息のような呟きが、届いた。
「ああ、そうか…そういうことか………」
 自分の主が、一人訳知り顔で、しきりに頷いている。その表情は、彼に似つかわしくない、どこか呆然とした、それでいて、どことなく楽しげなものだ。
「だから、彼女は――――――」
 気のせいで、なければ。
 ―――だから、彼女は、ここにいるのか。
 言葉は、そう続いた気がした。

「アーシャ」
 呼び掛けは、果たして聴こえているのか。
 虚ろな表情の彼女が、そこにいる。そのまま彼女が消えてしまうのではないかという恐怖が、エインレールの中に強く在った。
「アーシャ!」
 叫ぶと、ズキンと脇腹が痛んだ。無理もない。苦悶に歪んだその顔に、そっと白い指が触れた。
「死なせるわけには、いかない」
 それは先程から彼女が何度も繰り返している言葉だ。
 なんの感情も見せないまま、ただひたすらに。
 それが嫌で堪らなく、エインレールは更に彼女の名を呼ぼうと口を開いた。その唇に、指がスッと乗せられる。
「だから、だめなの。呼んではいけない」
 わけがわからない。なんで。
「今はまだ、本当は、違うから。本当は違うけど、あたしは、あなたを、助けたい。だから、呼ばないで」
 要領を得ない言葉に、眉を寄せる。どういうことだ、と更に訊ねようとしたが、彼女の指が邪魔をする。
「死なないで、…見殺しになんて、させないで。お願い」
 彼女の瞳が、一瞬感情を取り戻したように見えた。切なく瞳の奥の光が、揺らぐ。それと同時に、アーシャとエインレールを包み込んだ淡い光もまた、揺らいだ。同時に、脇腹に激痛が走る。ぐっ、と思わず声を漏らした隙に、彼女の感情は再び見えなくなってしまった。
 それでも、今度はエインレールは、名を呼ぶことはなかった。
 見えないだけだ。大丈夫。彼女は彼女を失わない。―――俺は、彼女を失わない。
 脇腹を抑えていない方の手で、彼女の片手を掴む。それはもしかしたら、それでも不安が残っていたからかもしれない。
 薄れていく意識の最後、彼女が優しく微笑んだ気がした。

 暗い闇の中、淡く光る様はまるで、闇夜を優しく照らす月明かりのようだと、思った。


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