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「お前とりあえずもうそろそろ、嬢ちゃんの様子見て来たらどうだ」
咎めるほどの大きさではない笑い声を立て続けるエインレールに決まりが悪くなったのだろう、ウェスタンは手をしっしと振った。
「あいつなら、自分で戻ってくると思うけど」
「うるせえ。俺が行けと言ったんだ。行ってこい」
理不尽と言えば理不尽、傍若無人といえばその通りな態度――自身が仕えるべき国の王子を相手に、そもそもそんな態度を取ることがおかしいのだが、そこらの疑問については全て昔に一応の解決(というか納得。あるいは諦観)しているので、ここでは深く追及しない――に、けれど怒りが湧かないのは、彼のそれが照れ隠しであると知っているからだろう。
「はい、了解しました」
わざと馬鹿に丁寧な言葉遣いを選ぶ。
それから彼女と同じように窓枠に足を掛け、しかし彼女とは違い、後ろから聞こえた静止の声には一切耳を傾けずに、そのままひょいと飛び越えた。
なんとなく、彼女と同じことがしたくなったのだ。それ以上の意味は無い。
軽い足取りで裏庭に向かえば、そこに赤色が舞っていた。燃えるような烈(はげ)しい赤ではない、それは優美さと穏やかさを纏った緋の色だ。しかしそれは今、どことなく鋭さを持っていた。
「…方便のつもりだったんだろうに」
いや、ウェスタンのことだから、強(あなが)ち全て方便というわけでもないのだろうが。
だからって、まったく。
自然と出てきたのは、仕方がないなあ、という苦笑。本当に彼女らしい。
真剣な眼差しで一心に剣を振るっている彼女の姿を目で追いながら、この後マティアのところにも寄るのだけれど彼女の中には体力温存という言葉は存在していないのだろうか、とちょっと疑問。もしかしたら忘れているのかもしれない。良くも悪くも、彼女には一直線なところがあるから。
しばらくぼうっと彼女を見ていると、一区切りついたところで、剣を鞘に収め、アーシャはこちらを振り返る。どうやら気付いていたらしい。
「すみません、熱中してしまって。ウェスタンさん怒ってました?」
「いや」
彼女を呼びに走らせたのはたしかに彼だが、それは怒っていたわけではない。
「ああ、じゃあ話が終わ、」
「ん?」
「あ、いえ。なんでもないんです、なんでも!」
ぱたぱたと二つの手を左右に振るアーシャの姿に、正直だなあと思う。なんていうか、態度が。
「さ! 早くウェスタンさんのところに行きましょう! あたしも、改めてお礼が言いたいですから」
「別に良いと思うけどな…あの人が礼を求めてるとも、思えないし」
むしろ嫌いそうだ。
それは先程の態度と現在の状況で、既にわかりきっていることだった。いやまあ今回に限らず、昔からそうではあったのだが。しかしそれはその場にいなかったアーシャには判断できないだろう。今はまだ。
それでも長年一緒にいるエインレールの言葉というのが大きかったのだろう。そうですか、と少々納得のいかない顔をしながらも、引き下がる。
「でも、とにかく戻った方がいいですよ」
直後に向けられた背中に、ウェスタンの時よりも大きく強く、はっきりと、言う。
「ありがとな」
ぴく、と小さく震えた身体は、おそらく普通なら見逃していただろうが、なにしろこの状況だ。
「何のことですか?」
振り返り、にこりと笑った顔に、どうやら正直でない時もあるらしい、と考えなんとなく可笑しい気分になってくる。それでも小さな反応を残してしまうところは、彼女らしかったが。
知らないふりは、おそらく彼女なりの優しさと気遣いなのだろう。けど。
「今は、それは要らない」
「へ?」
口元に笑みを少し残しながら、きょとりと目を丸くさせる。
「ありがとう」
彼女は、一度目よりも丁寧に告げた言葉を、前の言葉と合わせて、ゆっくり咀嚼しているようだった。
そうして、ふわりと優しく微笑んだ瞬間、エインレールは自分でも不思議に思うほどひどく狼狽した。それを隠すように、「それじゃ、戻るか」とあえて軽く言って踵を返せば、その直後に声が割り込む。そうしようと思わせた要因であるあのアーシャの笑顔と違(たが)わず、それはひどく優しい声で。
「エインは、あたしに会えた今に感謝するって、言いましたよね」
ああ、言ったよ。心の中でそっと同意する。―――だからこそ苦しいのだなんて、口が裂けても言えないけれど。
振り向くことも、無視することもできずに、その場に突っ立っている自分に、苦笑する。
「あたしも…そう思います」
全てを遮るような、凛とした声が響く。それは意図してそうしたようにも聞こえた。思わず、思考の全てが――息をすることすらも、止まって。
彼女の顔が見たいと思った。ゆっくり振り返る。緩慢なその動きを、アーシャは何も言わずに待っていた。やがて二人がしっかり対面する形になったところで、彼女はその続きをようやく口にした。
「エインに会えて良かったと、思いますよ」
きっとその言葉はまだ、自分と同じ意味で放たれたのではない。それは、わかっている。
それでもそれは、心に強く響いて。
彼女のふわりと笑った顔は、これまで見たどれよりも特別綺麗に映って。
自身の腕を彼女に伸ばしたのは必然。それが彼女を捕えて、自分の腕の中に閉じ込めたのも、だから必然なのだ。強く強く、自分でもわかるくらい強く抱き締める。だから彼女は、その細い体躯と一緒に閉じ込められた腕で、抵抗することも受け入れることもできない。
それでいいのだ。
今は。
(疑おう)
この腕の中にいる彼女を。
疑えと、言うのなら。
疑って、疑って疑って―――――そうして彼女が潔白であると証明してみせよう。
それが自分のできることだ。自分にしかできないことだ。
信じているからこそ、疑おう。きっと悩むだろう。疑うことに疲れ、後悔する、そんな日もやってくるかもしれない。それでも、今自分が彼女にできる“最大限”は、それしかない。
その所為で彼女に嫌われても構わないなんて、言わない。言えるわけない。言い訳が欲しいのだ、自分は。そうやって彼女を疑った後も、彼女の隣にいてもいいと、許されたい。自分勝手な、願いだ。人はそれを愚かしいと嗤うかもしれない。
だが、それがどうした。
溺れているならば、より深く。誰よりも愚かしくなってやろう。綺麗ごとなど、元より無縁のものだ。わかっていたことだろうが。言い訳? 上等だ。それが彼女の隣にいるためならば、恥だってなんだって自ら引き込んでやる。
だから、
「頼む」
自分でも情けなく思うほどの声だ。一瞬、詰まる。震えた声だって、隠すことができない。
それでも続けた。この時はそれでも良いのだと思えた。
「俺から、」
―――はなれないで。
掠れた声で告げた言葉が、正しく彼女の耳に届いたかどうか。
確かめる、間もなく、
「人の庭でいつまでいちゃついてやがる」
呆れを含ませたどっしりした声に邪魔をされた。
二人揃って、ぎこちなく声の主の方へ視線を投げ、何か含みを持たせたようなその顔に、慌ててお互いの身体を離した。正確に言えば、エインレールが力を緩めた瞬間にアーシャがバッと身を突き放したのだが。
そこまで嫌なのだろうか、とショックを受けたが、彼女の顔が真っ赤になっているのを見て、まあいいか、なんて思い直す。少なくとも、少しは意識されているようであったので。
とはいえ、自分の顔も似たようなものだという自覚もまた、悲しいほどにあったが。
横目でウェスタンを窺えば、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべている。あれは、今関わったら確実にからかってくるに違いない。瞬時に判断したエインレールは、アーシャの手首の辺りを掴んだ。驚く彼女に、「行こう」と強く言えば、彼女もそれが何を意識してのものか正しく理解したらしい。未だ真っ赤な顔でこくこくとまるで何かの玩具のように一定の動きで首を上下させている。
「おい嬢ちゃん、俺が出した宿題は?」
「つ、次! 次に来た時に!」
その時に絶対! と叫ぶアーシャに、じゃあその時は別のことについても訊かせてもらうか、と意味ありげに視線を寄こすウェスタンを、睨み返す。その反応が余計に相手を喜ばせているのだとわかっているが、どうしようもない。
「じゃあまた、な!」
無理やり会話を打ち切ると、アーシャを引っ張って、急いでそこから逃げた。これ以上付き合っていたら自分が不利な状況に追い詰められるのは、明白だ。
「次はそっちの方の報告でもいいけどな~」
後ろの方でまたウェスタンがごちゃごちゃと何かを言っていた気がしたが、意識して聞かないようにした。
―――手、握ったままだな。
ふと、思う。少し緩めれば、自然と握る対象は手首ではなく、自分と同じ――いや、自分よりも小さな手のひらになって。
そのまま、ぎゅっと握り締めた。
「エイン…?」
戸惑ったような声が後方から聞こえたが、聞こえないふりをして。それでも離されない温もりが、とても心地よかったから。
「なーに仲良く手を繋いじゃってるんだ、そこのお二人さんは」
…それをマティアに見られたことについては、後悔したりもしたけれど。
いつか彼女が全てを知った上で、自分が触れることを許してくれたなら、それはなんと温かな幸福だろうかと、想像した。