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彼が去った後の部屋は、しばらく静かだった。ただ二人とも、じっと扉を見ていた。同じ場所に立ち、同じ者を見送り、同じことをしているが、もう片方が何を考えているのかは、わからなかった。
「びっくりしちゃったよ」
やがてそれまでの沈黙を無かったことにするかのように、ランドリードが明るい声で笑う。
「エインのあの顔のことですか? 僕は結構前から気付いていましたが…」
「それは…ぼくも気付いてたけど、でもあそこまではっきりと現れるとは思わなかったから」
「それには同感ですね」
渡された鍵を手の中で弄(もてあそ)びながら、くす、と笑みを零す。
柔らかい顔だった。
とても柔らかい―――ああ、本当に大切に想っているのだと、周囲に嫌でもわからせるような、それでいてそれは強烈ではなく、どこまでも穏やかな表情だった。自分たちを見る、温かみを帯びたソレと似ている。けれどそれはあくまで“似ている”の範囲であって、イコールでは繋がらない。繋がるはずがない。そういうものではない。
あれは、父が母にふとした瞬間に見せるものと同じだった。
「―――よかった」
思わずといったように零された弟の言葉。
「何がです?」
「アーシャさん、いい人そう」
にこ、と可愛らしく、無邪気に笑う。本気でそう信じきっている顔だ。どうして、と続いて疑問をぶつければ、だって、とその笑みを崩すことなく答える。
「エイン兄が褒めちぎってたし。ぼく、自分の勘よりもずっと、エイン兄のこと信じてるから」
「それだけ?」
「それだけでぼくには十分なのー」
子供っぽい考え方だ。根拠も何も無い。誰にだって間違いはある。この時がその“間違い”だったのならどうするつもりだろう。そんなことを考える時点で、自分はつくづく素直などとは正反対の場所に立っているのだと思い知らされる。そういう意味では、父に一番近いのは自分なのだろう。
別に可愛い弟の考えを間違っているなどと言うつもりはない。そうやって信じられることは、幸福であるのだ。尤もそれは信じる対象によるのだろうが。――少なくとも今のエインレールは大丈夫だろう。そう思える程度に、アルフェイクは彼を信じている。
エインレールがエインレールである。それが信じる理由だと言い切った弟の顔を見下げる。幸せそうな顔。それでいいと思った。願わくば、その“子供っぽい考え”が永久のものであることを。疑って生きることを、彼が選択することのないように、祈る。そんな選択をするのは、自分一人で十分なのだ。
だから、
「―――会ってみてはどうですか?」
「…誰に?」
わかっているだろうに訊くランドリードに、答えはあげない。
どうか選択肢を減らさないで欲しい。勘なんて信じていないのだと言う彼が、一番それに囚われている。会ってはいけないのだと、頑なに信じている。それはとても悲しいことだ。
「君は敏い子だから、大抵のことは悟ってしまうのかもしれません。だけど、無意味なことが必要な時だってあります」
エインレールが今扉を開けて出て行ったのは、必要のあること。
ランドリードが彼女に会おうという意志を持つのは、必要のないこと。
彼はそう言った。そういう区切りをつけた。けれど。
彼の言うとおり、たしかに会えないのかもしれない。それなのにあえて奮闘する必要が今あるのかどうかは、アルフェイクにはわからない。ただ、そういう選択肢もあるのだと、それを知っておいて欲しかった。
戸惑い、視線を彷徨わすランドリードは、でも、と言い淀んだ。
「…でも、もう始まっているのに」
ぴき…ぴきり、と水晶玉が割れていく。
その音が響く。
一度罅(ひび)が入れば、それまでの平穏が嘘であるかのように。
速度は増していく。どんどんと。
「それでも」
アルフェイクは俯き気味になったその顔を覗きこむように、微かに首を横に曲げた。
「会いたいんでしょう? 君は」
それが大事なのだ。そう言えば、ランドリードは目を軽く見開いた。それから少し考え込むような動作をした後、
「…会いたい」
小さい声で、主張した。
「会いたい。会ってみたい」
最初よりも強い声で、繰り返す。そうして、やっぱり穏やかに笑う。
「だってエイン兄があんなになっちゃうくらいの人だもんね。興味、あるから」
だからね、と軽く上気した頬に片手を当てる。
「いつか――いつか、少しでも会えそうだと思ったら、会いに行く」
それは、先に述べたその言葉と、大差ないように思える。けれど、彼の中では明確に違うものであるのだろうことは、顔を見ていればわかった。なら、今はそれで満足だ。初めから完璧に移行しろなどと言うつもりはない。
「ありがとね、アル兄。…ぼく、アル兄のことも信じてるし、大好きだから!」
その言葉に、彼の頭をぽんぽんと撫でた。さっきのエインレールと同じように振り払われそうになるが、その抵抗を無視して、撫で続ける。
―――見てくれるな、と思ったのだ。今の自分の顔を。
礼を言うな、と。心の底から。
お前のことを想って言ったわけじゃない。自分のためだ。自分が綺麗なものを見ていたかったから。壊したくなかったから。それだけだ。
だから。
…だけど。
「ありがと。―――ごめん」
小さく呟いた声が、誰に向けたものだったのかわからない。
エイン。エインレール。
同じように護ってやりたかった弟の名を口の中で呟く。
本当は、君に伝えるべきだったのに。言えなかった。君は君の望むように動けばいいと、言えなかった。言える自分が、そこには存在していなかったのだ。それが自分の望むことと、ぶつかると思ったから。そういう理由で。
きっと君はそれに気付いていただろう。
ごめん。
ソレを選ぶのは、自分だけでいいと思っていたのに。
ピキン――
甲高い音が響き、アーシャは空を仰いだ。もちろん何もない。
だけど何かが、確実に聞こえた気がして。
「なに…?」
無意識に呟いた言葉は、すぐに空気に溶けて、消えた。